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院長プロフィール

Greetings初めまして、院長の永田裕保です。

初めまして、永田矯正歯科院長の永田裕保です。
永田矯正歯科のホームページをご覧頂きありがとうございます。
ここでは私の略歴と、矯正歯科医になるまでのエピソードをご紹介いたします。

Profileプロフィール

院長 永田 裕保 Hiroyasu Nagata

1967年4月1日生まれ
大阪市立小林小学校(大正区) AED設置の紹介
大阪市立大正中央中学校(大正区)

[ 所属学会 ]

Career経歴

1982年大阪府立 大手前高校 入学
1985年大阪大学 歯学部 入学
1991年大阪大学 歯学部 卒業
歯科矯正学講座入局以降開業までの間、同講座にて歯科矯正学専門に臨床、教育、研究を行う
1997年日本矯正歯科学会 認定医資格 取得
1999年地元大正で矯正歯科医院として開業
2008年日本矯正歯科学会 専門医資格 取得
2020年日本矯正歯科学会理事(卒後研修委員会、研修機関検討委員会)
2022年日本矯正歯科学会理事任期終了(卒後研修委員会、研修機関検討委員会)
2022年近畿矯正歯科研究会 会長就任
2024年日本歯科専門医機構認定 矯正歯科専門医資格 取得
2024年近畿東海矯正歯科学会 副会長就任
2024年日本矯正歯科学会 認定医委員会 審査員
2026年近畿東海矯正歯科学会 会長就任予定

My Road to
Orthodontist
矯正歯科医への道

1967
鉄鋼と材木の町、大阪市大正区で生まれました。

昭和の日本が高度経済成長をむかえる中、1967年4月1日、永田裕保は鉄鋼と材木の町、大阪市大正区で生まれました。市内の公共交通が、市電からバスに切り替わった頃でした。私が3才になった1970年、太陽の塔で有名な万国博覧会が大阪で開催されました。混雑していたことと初めて見たモノレールだけは覚えております。内容はかすかにしか記憶にありません。

住んでいた場所は、小林という地区で、材木屋が多くあり、私の家も材木屋でした。周辺には丸太を浮かべる運河があり、材木橋とよばれる橋が架かっておりました。煙突から黒い煙が上がっているのが、経済発展、産業の象徴と言われた時代、今では考えられないことですが、小学校の校歌の一節に、『空いちめんの黒煙』という歌詞があるくらいでした。

大阪の西の端に位置し、海抜ゼロメートル地帯のため、台風の度ごとに洪水に見舞われたようです。そのため、何度か地上げを行い、現在の状態となっております。今と違い、周りには背の高い建物は何もなく、写真をみると、ここはどこ?戦後復興期の日本?というような所です。

大正区で有名なものといえば、昭和山でしょうか。昭和の時代に、地下鉄のトンネルを掘った際に余る土やゴミを埋めて、盛り上げて作ったと聞いております。これが当時の昭和山の写真です。

今はこの当時と違い、緑が多くなり、区民の憩いの場となっております。

1972
家から離れた幼稚園に通うも、どういうわけか1年保育…?

市立泉尾幼稚園に通っておりました。その当時、歩いていける距離に他にも幼稚園があり、近所の友達もそこへ行っていたので、私も行きたかったのですが、抽選に漏れたのか、申し込むのを忘れたのかわかりませんが、家から離れた幼稚園に市バスに乗って通っておりました。現在、幼稚園は2年保育もしくは3年保育ですが、どういう訳か私は1年しか通っておりません。

1973
小学校時代

私は、小学校時代、無口な存在感のない子だったと思います。 通っていたのは市立小林小学校です。入学当時平尾小学校分校という名称だったでしょうか。 できたての学校で、入学当時はグラウンドが広いのは良いですが、講堂なし、プールなし、極めつけは塀もありませんでした。良いところもありましたよ。どこからでも入れるのですから・・・。

とんでもなく広いグラウンドで毎日、のびのびと遊んでおりました。鬼ごっこ、ボール当てなどしていました。2クラスしかないため、和気藹々とした良い学校でしたね。
(2007年小林小学校にAEDを設置しました)

放課後は何をしていたのでしょうか。確か学校の近所に駄菓子屋があり、そこへ集まって、おやつを買ったり、数字合わせゲームをしていたような気がします。習い事といえば、家で祖母が書道教室をしておりましたので、書道を習っておりましたが、自ら進んでではありません。今から思えばやっていて良かったと思います。 あと、そろばんも習ってましたが、これは私の頭の中から跡形もなく消えてしまい、今では全くできません。

1979
中学時代

何も考えずに地元の大正中央中学校へ通っておりました。名門?迷門?よくわかりませんが、和気藹々とした小学校とは違い、とっても刺激的な学校でした。校内暴力まっただ中でしたね。グラウンドで遊んでいると窓ガラスが飛んできたり、入学式、卒業式に、警官が外で警備していたこともありましたね。授業中先生が、『今日は入りが悪いなあ~』と嘆かれることもあったような気がします。 ちなみに、私はきっちりと前を向いて着席しておりました。それだけで、立派な行いだったようです。そんな感じの楽な学校でした。休み時間も長かったですね。だって、生徒が帰ってこないんですから・・・。

1982
高校時代

初めての受験でした。府立大手前高校へ進学しました。距離は遠く、50分もかかりましたが、すばらしい高校でした。ただ、あまりにも楽な中学時代を過ごしておりましたので、ギャップが激しく、慣れるまでしんどかったです。みんな前を向いて、話もせず、きちんとノートを取っていたのです。話しかけても、誰も相手をしてくれないのです・・・。高校時代の思い出は、冬の耐寒マラソンをしたことです。場所は大阪城の堀を走っておりました。 高校生活にも慣れ、文系理系に分かれる時期に、迷いなく理系を選びました。理由は理系の科目が好きだったからです。

歯科医を目指そうとした理由

進路を決断するとき、当初自分の偏差値で可能性のある大学の赤本をぱらぱらめくり、学部情報を読んでおりました。その中で、興味を引かれたのが、大阪大学工学部の発酵と、大阪大学歯学部、大阪市立大学医学部、京都大学農学部でした。 バイオと言う言葉がブームでしたし、おもしろそうな分野だったので迷いましたが、決め手は、卒業後のことでした。当時、医者・歯医者なら独立、それ以外ならサラリーマンしかないと思っていました。企業に勤めるとなると、大きな組織の中で自分のやりたいこともできず不満の残る人生になってしまうのではないかと考えました。今から思えば、起業して、独立、社長という道もありますよね。 しかし、高校生の私には、以上の様な思考回路しかありませんでした。要するに自分の力で、自分で事業を興したかったのです。幸い、手先が器用な方でしたので、それを行かせる仕事がしたいというのもありました。そして、結論が歯学部です。

当時、共通一次試験があり、二次試験の大学も1つしか受験出来ませんでした。共通一次試験は大変リラックスして受けることができたのは良いのですが、お弁当を食べてからの英語が眠くて眠くて・・・。長文の同じ所を何回も読んでいました。 結果は失敗です。合格点から大きくはずれておりました。学部の変更も考えましたが、歯医者になるとの意志が変わることはありませんでした。そこで、大学の変更を検討したのですが、だめで元々、大阪大学歯学部で一発勝負にかけたのです。結果はラッキーにも逆転満塁ホームランでした。そのようにして大学が決まりました。

1985
大学時代・クラブ活動

大阪大学に入学してからは、勉強だけでなくクラブ活動もしたい、できれば自然を満喫したいというのが希望でした。 クラブオリエンテーションの際におられた方が、たまたま高校の先輩(北池さんです)とわかり、いつの間にか入部しておりました。そのクラブは、大阪大学体育会釣部というのですが、何で体育会なのか当初わかりませんでした。 活動内容は、背中にリックサックを担ぎ、山の中(渓流班)をさまよったり、無人島やへき地に赴き(海班)、魚を釣ることでした。

私は海班に所属し、近畿地方だけでなく、四国、山陰、沖縄などいろいろなところを旅しました。学生は、お金はないが、時間はあります。そこで、青春18切符を使ったり、沖縄まで2日かけて船で旅したものです。楽しかったですね。無人島では、当然お風呂もトイレもありません。都会での生活とは、全く違う生活です。最初は抵抗がありましたが、慣れとは恐ろしいもの、何ともなくなってきます。

合宿での楽しみは、地元の方との交流です。沖縄の座間味諸島に行っていたときの事ですが、いつもの様に船着き場でテントを張っていましたところ、地元の方が集まってこられました。そのうちの一人が白い犬を連れておられましたが、なんと神戸から来られているとのことで、話が盛り上がり、宴会になりました。次の日、その犬がいなくなったと来られ、その方の船に乗って一緒に探しましたが、見つかりません。流されてしまったのではと、がっかりされていましたので、いろいろお話しをし、慰めたりしていました。

その後、大阪に帰り、数年が経過し、何気なく新聞に目をやりました。すると、いなくなったはずのあの白い犬『しろ』が映画の主人公になっていました。『マリリンに会いたい』という映画があったのを覚えておられますか。マリリンという雌犬にあいたいため、雄犬の『しろ』が流れの速い島の間を泳ぐお話しです。このモデルとなった犬だったのです。

歯科矯正を選んだ理由

歯学部は6年制ですが、6年生の夏までに進路を決めないといけません。国家試験に合格すれば、一人の歯医者の誕生です。しかし何もできません。そのため、どこかで修行するのです。 選択肢は2つ、大学に残るか、開業医に出て修行するか。早く開業したければ、開業医での修行が近道でしょう。しかし、私は他の人にはできない特徴のある歯医者になりたかったのです。時間はかかってもかまいません。人に負けない、自信を持てる事を極めたかったのです。 そこで、大学で研修することに決めましたが、次はどの分野を極めるかです。その当時、入れ歯に変わる治療方法としてインプラント治療が注目されはじめていました。そこで一つめの候補は、全身管理ができ手術ができる口腔外科(歯を抜いたり、口の中の手術を専門に行う)、もう一つは、自分の歯で歯の位置を変える矯正治療でした。 しかし、日本におけるインプラント治療は、開業医における臨床が先行しており、当時の大阪大学における考え方としては否定的な考えをされる指導者が多かったようです。その理由は、開業医において入れたインプラントを大学で抜くことが多かったためのようです。そこで、インプラントを学ぶのであれば、大学はふさわしくないと私は考えました。

このように、消去法により矯正が残りました。では、どうして矯正に興味を持ったのか?理由は、歯が動く・歯を動かすことができるということが、不思議でおもしろかったのです。私も歯学部に入るまで歯が動くことを知りませんでした。 また、変な位置にある歯は、咬めませんし、手入れができません。虫歯になったり、歯周病になる危険性が高いのです。となると、次は差し歯、ブリッジ、入れ歯へとつながる悪循環に陥ります。矯正治療により、この悪循環を防ぐことができるのです。 差し歯やブリッジ・入れ歯のような人工物が、自分の歯より優れているはずはありません。 また、私は、日本矯正歯科学会認定医ですが、この資格は大学で研修しない限り、資格が取得出来ません。そこで大阪大学歯学部歯科矯正学教室に入局致しました。

1995
大阪大学歯学部附属病院矯正科勤務時代

大阪大学を卒業し、当時の主任科長、作田守教授に入局を許可していただき、矯正の勉強がはじまりました。しかし、待っていた現実は、学会準備のための郵便物の発送とコピー取りの毎日でした。 夏を過ぎ、大学の同窓会をしたところ、特に開業医に就職した人は臨床家として成長していました。学生時代ぱっとしなかった人が、歯を抜けるようになったと聞いたときにははっきり言ってショックでした。私ができるのは、コピー取りだけです・・・。焦る思いを抑え、矯正の勉強をしました。 学会も無事終わり、以降本格的に矯正を学びました。いろいろな立派な先生方にアドバイスを受け、研修させていただきました。そして、5年が経過し、臨床経験数も増え、日本矯正歯科学会認定医も取得することができました。その後は恩返しとして、学部6年制の先生方の臨床指導、卒業2年目までの先生方への臨床指導をおこないました。

矯正歯科医開業の決断

大学病院にて矯正治療を勉強しておりましたが、一般歯科治療の勉強も、開業医の先生の元で約5年間行っておりました。しかし、週に数回の研修ですのでそれ程大した腕はありません。そのためか、余裕がなく、カルテがたまり、焦って患者様への説明もそこそこになってしまいます。精一杯がんばってきましたが、どうもしっくりきません。なぜなのだろうか?それは、自分の一般歯科治療能力の低さと現在の保険医療制度にあると考えました。

自分の一般歯科治療能力は、研修により鍛えられます。しかし、現在の保険医療制度はどうすることもできません。保険は、どれだけ丁寧にしっかり治療したかが評価されなく、画一的な評価です。丁寧にしっかり治療すればするほど赤字になってしまいます。患者様には喜んでいただいても、従業員、家族を支えられない気がしました。

それならば、私のもっとも得意とする矯正治療専門で開業しようと決断しました。幸い、各分野の第一線で活躍している先輩、同級生がたくさんいましたので、チーム医療体制を取ろうと決めました。ちなみに矯正科同期入局者は6人でしたが、現在矯正専門で開業しているのは3人です。

医院のコンセプトを決めたとき

開業する段階でもう一つの取り組みとしたのは、矯正治療に伴う総合的な美容を意識するという事でした。矯正治療は子どものうちに行う場合、男女の差はほとんどなく、本人よりもむしろ保護者の方がお子様の歯並びを気にして連れて来られます。仕事などの事情もあると思いますが、大抵の場合はお母さんに連れられて医院を訪れます。

そして大人の矯正治療では、そのほとんどが女性の方です。驚いたことに男性の方は成人の矯正治療というものに無関心な場合が多く、矯正治療は子どもの内にしておくものだと思っている人もいるのです。歯並びが及ぼす悪影響についての認識というのもあまりないようなのです。それに比べると女性の方はコンプレックスや美意識が男性よりも高く、積極的に矯正治療を受けようと考えている人が多いのです。子どもの頃は何らかの事情で矯正治療を受ける事ができなかったけど、自分で収入を得て、時間の都合も自分で判断できるようになり、矯正歯科を訪れる方が多く見受けられます。

また、女性の方は矯正に限らず美容に関して非常に興味が高くあり、それが実は機能的な役割を果たしているという事も自覚されているケースが多いことにも気づきました。そこで考えました。女性は自らの意識で行動し、よい影響をやがて自分の子どもにも反映させていくのでは?それならば女性の積極的な意識は子どもの矯正につながり、男性にも間接的な影響を与えることができるのではないか。矯正治療は歯の機能回復に大きく貢献するのですから、これはすばらしい事です。

そこで私が目指したのは女性にとって、また子どもにとっても抵抗感なく矯正治療のメリットを示すことが出来る医院作りでした。コンセプトは「より美しく機能的に」そう考え、1999年の開業に至るまで、患者さんが心地いいと感じてもらえる医院の建物や対応、矯正治療や医院スタッフの意識統一をどう進めるかを考えました。

そして開業10年目の2008年初頭、矯正治療に関する経験・実績・専門知識が認められ、日本矯正歯科学会専門医試験に合格しました。しかし医療技術は日々進化しています。これからも鍛錬・研究を怠らず、また患者様や地域に貢献でき、信頼されるクリニックを目ざし続けています。

2008
母校である大正区小林小学校にAEDを設置しました

2008年秋、私、院長永田の母校である大阪市立小林小学校(大正区)を訪ねました。 小林小学校は2008年に創立35周年を迎えた、児童数310名の学校です。私の入学した当時は平尾小学校の分校という扱いで、クラスは2クラスのみでした。その後、独立校となり児童数も増えていたらしいのですが、現在は少子化の影響で当時と同じ各学年2クラス編制だそうです。私も幼い頃駆け回った広大な校庭で、今も同じように子どもたちがのびのびと遊び、学んでいるのを頼もしく眺めていると、校長である西野文子先生が出迎えて下さいました。 私が母校を訪ねたのは、昨年AED(自動体外式除細動器)を小林小学校第5期卒業生として小林小学校PTAに寄贈させていただいた経緯からです。小学校へのAED設置は勧められてはいるものの、限りある予算の編成上なかなか実現できないという話を伝え聞き、卒業生としてぜひお手伝いできる事ができればと思い実現しました。

AEDの機器は学校の南端、プール横の講堂の入り口に設置されていました。今年の夏休みには、教職員、PTA、地域の皆さんが集まって消防署による講習会も行われたそうです。AEDが使用されることが無いのが理想ですが、もし子どもたちや小学校での地域活動に参加されている方に万が一の事があった場合に迅速に対応できます。AEDのおかげで助かった命もよく報道されていますし、さらに様々な場所に設置が行われ、一人でも多くの方の救命に役立ってくれればと思います。

また、今回懐かしい再会がありました。 現在小林小学校で用務員として勤務されている山本さん。この方は私がこの小学校に通っていた頃からずっと小林小にお勤めで、なんと勤続37年。今では「小林小学校の事で知らないことはない、小林小の村長さん」として親しまれているそうです。 山本さんは当時できたての小学校の植木も庭も校庭の塀も何も無い所に花壇を造ったり、藤棚を整えたりと私たちにとっては頼もしいお兄さんで、また私のこともよく覚えていて下さり懐かしい話に花が咲きました。あの頃は悪い事をするとよく木の棒でコツンとやられたものです。今では親が小林小卒という子もかなりいて「お父さんがおっちゃんに叩かれてたって言ってた!」と言う子もいるのだとか。私たちが低学年の頃は、分校だったためにプールは500mほど先の平尾小学校(本校)に歩いて通っていて、途中で光化学スモッグ注意報が出てはとんぼ返りさせられていた事を「あれはホンマに可哀想やったなぁ」と懐かしんでおられました。院長プロフィールでも書いていますが、当時は本当に空気が悪かったのですね。 山本さんは後数年で定年を迎えられるそうです。子どもが好きだから今まで続いたよ、とはにかんだ笑顔が印象的でした。

AEDをきっかけに、いろいろな思い出が蘇り、私もそうだったようにここで様々な事を学び、経験して、社会に巣立っていくのであろう子どもたちに大きな希望を感じ、この日のお天気と同様に本当にすがすがしい一日となりました。 温かく迎えて下さった校長先生、教頭先生、山本さんはじめ学校関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。